1926(昭和元)年 月 日-1994(平成7)年8月29日没(享年69歳)
玉川大学初代監督であり、日本アメリカンフットボール界にとっても大きく尽力された方です。その功績は以下の公的な出版物をご覧頂ければ一目瞭然だと思います。
1978(昭和53)年 玉川大学アメリカンフットボール部 監督就任 当時52歳
杉原監督が、玉川大学アメリカンフットボール部の監督に就任された理由は、1941年(昭和16年)に遡るそうです。当時、アメリカから一時帰国をしていた15歳のウィリー少年は、太平洋戦争が勃発し、アメリカに戻ることが出来なくなったそうです。その時、日本のことを全く知らず、日本語すら全く話せないウィリー少年を温かく迎えてくれたのが、当時の玉川学園中等部(旧制中学)だったそうです。生前に、玉川学園の創設者である小原国芳先生にとても感謝をされていたと聞いております。この玉川学園で暮らした3年間の感謝の気持ちで、玉川大学アメリカンフットボール部の監督を自ら買って出て下さったと伝え聞いております。
杉原監督は、玉川大学において、当時、T体型、I体型が主流であった時代にちょっと特殊なオフェンス体型を導入します。他校から見ると『オフセットI』と称されていましたが、玉川大学では『ダイヤモンド体型』と呼んでいました。QB、HB、TBが3枚並ぶのはI体型ですが、そのHBがTEサイドに寄った所にポジションし、トランプのダイヤのマークに似ていることからその名が付けられました。TBは比較的深い所に位置し、加速力があり、上がりの早い選手を置くことで、オープンサイドに強いプレー展開になる様にアレンジしました。
オフェンスプレーとしては、HBをオフセットさせる事により、CからOff T間のどこにでも素早いダイブを繰り広げられるように位置し、小柄なOLでもスピードとタイミングで第一線を抜き、ダウンフィールドブロックをする事によって、一気にTDを狙う事を常に意識させられました。また、そのHBダイブを軸に展開する3ウェイのオプションプレーにより、QBが走り、TBがオープンサイドをしゃくる、そこからのプレーアクションパスといった、相手ディフェンスの状況に応じたプレー展開を常に教えられました。フロントラインもトラップやプルアウトといった機動力を求められ、比較的小柄な選手が多かったチームに、戦略と機動力で勝つことを指導されました。
ディフェンスは、当時、5ー2や4ー4が主流であった時代に、4ー3ーRでかつディフェンスラインをシェードの位置に付かせることにより、各ポジションのアサイメントを明確に指導し、徹底させることによって守ることを教えられました。ひとりのスーパースターではなく、チームで守る事を常に教えられました。チャージングに余り頼る事なく、アサイメントディフェンスをベースに『どんなプレーが来ても止まる』事を目指して指導されました。
この様に、当時の日本アメフト界においては、斬新とも言えるオフェンスやディフェンス体型を駆使し、少数かつ小柄な選手を有効活用することにより、新しい形のアメフトの風を吹かせました。
玉川大学は、1982年に関東学生アメリカンフットボール連盟に加盟後、準加盟、3部リーグと全勝優勝を遂げ、2年で2部まで昇格します。しかしながら、2部初年度に4勝2敗で3位まで上り詰めるも、2部から1部の壁は厚く、加盟10年目の1991年にチーム最高位の2部2位を収めますが、翌年に3部降格。残念ながら、その後、杉原監督就任中に2部復帰をする事は出来ませんでした。
1994(平成7)年8月29日 永眠 享年69歳
タッチダウン 平成7年11月号
玉川大学監督ウィリー・N・杉原氏逝去 |
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戦後の日本フットボール復興に尽力した一人として、昨年日本フットボール協会60周年功労者としてライスボウル会場で表彰された玉川大学のウィリー・N・杉原監督が、病気療養中、8月29日逝去した。享年69歳。
ウィリー・N・杉原氏は、1941(昭和16)年に来日、弟のターマス、ジャンが立教大学に在籍した1951~54(昭和26~29)年頃、立教大学のコーチを務め、弟2人が卒業すると、明治大学コーチを経て、1957~60(昭和32~35)年には防衛大学校のコーチも務めた。
1963(昭和38)年に創部した専修大学を、初代監督として1964(昭和39)から77(昭和52)年まで率いた。専修大学の3人のバックスを配したスプリットT体型からのクイック・ヒットの哲学を植え付けたのは、他ならぬ杉原氏だった。その後78(昭和53)年にチーム発足した玉川大学の監督に就任。コーチ生活実に45年目のリーグ戦を控えていた矢先の訃報だった。
長年のコーチ生活の中で、杉原氏に影響を受けたフットボール関係者は多く、8月31日に行われた告別式には多くの尋問客が訪れた。 |
コラムより |
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蓄えたパワーを最大限に引き出す戦略の工夫で、何時も真っ向から前進を計る。そんなフットボールが好きで、専修大、防衛大、明治大、そして玉川大の指導にあたり、日本アメリカンフットボール協会60周年功労者表彰を受けたウィリー・N・杉原氏が、8月29日に亡くなった。
享年69歳だった。
「あれが最高のフットボールだよ」
けれんのないジョン・リギンスの突進を、ホグスの異名を持った攻撃ラインが支えたワシントン・レッドスキンズの83年・大17回スーパーボウル制覇を、トレードマークだった腕組みポーズで繰り返し強調していた姿が懐かしい。
黙祷。
(松本直人)
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アメリカンフットボールマガジン 平成7年11月号
玉川大学監督 ウィリー・杉原氏逝去 |
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玉川大学監督、ウィリー・N・杉原氏が8月29日、午後7時24分、病気療養中のところ逝去された。享年69歳。杉原氏はこれまで専修大学、防衛大学の監督を歴任するとともに、関東学生オールスターチームの監督も務められた。また長年にわたってフットボールの発展に貢献されたことにより、本年1月3日のライスボウルにおいて、日本フットボール協会の60周年功労者表彰を受けられた。 |
『タッチダウン 2015年10月号 専修大学のチームプロフィール』より |
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Tからウイッシュボーンへ、伝統の3バック攻撃
63年同好会発足、65年関東大学連盟に加盟。2部リーグ初年度は3勝3敗3位。チームを率いたのは元立教大学コーチの杉原ウィリー則夫監督だった。誕生以来、第四期まで明治大八幡山グラウンドで練習を積んだが、明治大の野崎和夫監督の紹介で杉原監督率いる専修大が誕生した。当時は金のヘルメットと黄パンツの明治大からの物資支給によるものだった。杉原監督体制下では3バックのT体型からのダイブが代名詞となった。誕生後13シーズン43勝31敗2分。最高位はリーグ3位。78年に就任した山下茂樹監督(73年卒)は、ウイッシュボーン攻撃導入で3バックの伝統を継承。山下監督体制はわずか3年だったが、この間に現ニックネームのグ名乗るようになったこと、近代戦術の積極的導入等、現在の基礎が作られた。81年には近藤郷司監督が就任。この年、関東学生連盟の1・2部制移行により2部リーグとなったが、リーグ戦6試合259得点、失点0の完全優勝。入替戦で青学大を70対0で下し、1部昇格を果たした。
守備優先の人財投与、積極的なリクルート、専修大職員として学内の組織整備に腐心した近藤監督体制下で競合へと成長。86年5勝1敗で1部Bブロック初優勝。関東選手間決勝は0対95で日大に完敗したが、91年に5年ぶりブロック優勝を果たし、決勝で33対31と雪辱。初出場の甲子園ボウルは関学に20対25で敗れたが、堂々の挑戦だった。近藤監督は12シーズン46勝19敗2分(.715)の安定した戦績を収めた。93年に引き継いだ平野泰雄監督体制下でも、04年に一度勇退するまで12シーズン52勝17敗2分(.746)と安定感を引き継いだ。 |